アスリート出身ライフプランナーインタビュー
-挑戦は終わらない-
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アメリカンフットボール部
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- 石原写真事務所(武市・齊藤・井川)
一流のスポーツ選手として活躍してきたアスリートたちは、どのようにしてセカンドキャリアでも輝きを放ち続けているのか。
アメリカンフットボール・サッカー・野球・セーリングで活躍してきた元選手たちが、生命保険のプロフェッショナルであるライフプランナーに転身した今について語った。
武市 憲資(たけいち けんじ)
小学1年から少年サッカーチーム西綾FCに参加。神奈川県綾瀬市立城山中学サッカー部を経て、東海大相模高校時代はベルマーレ平塚(当時/現・湘南ベルマーレ)のユースに加入。高校卒業と同時に、1996年からJリーグ・ベルマーレ平塚と契約。東海大学を休学してプロ生活を送るが、3年目で戦力外通告されて引退、大学に復学した。2002年大学卒業後は、スポーツ用品メーカー大手ミズノで商品企画や広報に携わった。2010年6月プルデンシャル生命保険入社。現在、ライフプランナーの仕事のかたわら、東海大学付属高輪台高校サッカー部コーチを務める。
ライフプランナーとサッカー選手で共通していることは何か。武市に質問するとこんな答えが返ってきた。
「実力ある人が続けていけるということです。ラッキーなシュートが1、2回決まってもそれだけでは続かない。そして、実力があっても努力しなければ、話になりません。ライフプランナーの世界で一流をめざすのに、プロサッカーの経験が大いに活きています」
21歳でJリーグ引退という挫折
兄が通う少年チームの練習についていくうちに、武市もサッカーを始めた。高校生になってベルマーレ平塚(当時/現・湘南ベルマーレ)のユースに入ると、「3年になって1軍の試合に出られるようになり、秋には『来季はプロ契約する』と言われました。東海大学に進学し、大学生Jリーガーになりました」。当時のベルマーレはそうそうたるメンバーが在籍していた。中田英寿、呂比須ワグナー、小島伸幸、ホン・ミョンボ…。ワールドカップへの出場経験もある選手たちがひしめきあっていたのである。この中で1軍のピッチに立つのは容易ではなかった。大学を休学し、サッカーに専念するも、半年も経たないうちに戦力外通告を受けた。
実力勝負の世界に、もう一度挑戦したい
武市はサッカーを辞めて、大学に戻った。大学卒業後はスポーツ用品メーカーミズノに入社し、商品企画に携わった。ミズノに勤めて8年目のある日、ライフプランナーに転身した先輩から声が掛かり、プルデンシャル生命に入社した。「Jリーグ時代のように、実力で勝負したいという思いがありました。私は誰よりも練習していた自負はありましたが、中田英寿は、才能がある上に、さらに誰よりも努力していました。これはかなわないなと思ったものです。超一流の選手ほど、誰よりも努力しています。あのトップをめざす実力の世界に、もう一度挑戦したくなったんです」
いつまでも挑戦し、成長していくことができる
ライフプランナーという仕事の魅力について、武市はこう語る。「サッカーには引退がありますが、今の仕事には、ありません。そして、年齢に関係なくいつまでも挑戦し、成長していくことができます。それがライフプランナーという仕事の魅力です。私もトライ&エラーしながら、常に上をめざしつづけたいと思います」。
齊藤 信介(さいとう しんすけ)
高松市立一宮小学校で4年生から野球を始める。一宮中学野球部を経て、高松第一高校に進学。龍谷大学では関西六大学リーグ通算21試合に登板し、10勝5敗、防御率1.77、147奪三振。4年時にはリーグ最優秀投手に選ばれた。大学卒業後は、社会人野球NTT西日本に入団。2005年ドラフトで中日ドラゴンズに6巡指名され、2006年に入団。1軍での成績は3勝2敗3ホールド。怪我のために2012年に現役引退した。その後は球団フロント(株式会社中日ドラゴンズ)に転身し2年余り務めた後、2015年3月プルデンシャル生命保険入社。
「私は入社するときに、『ドライデン・アワードをめざします』と公言して、1年目で達成しました。必ず取ると信じ込みました」と胸を張る齊藤信介。
ドライデン・アワードというのは、プルデンシャル生命保険の親会社であるプルデンシャル・ファイナンシャルの創業者、ジョン・フェアフィールド・ドライデン氏の名前を冠した、個人保険部門のトップのライフプランナーに授けられる栄誉だ。
プロ野球では戦力外通告
齊藤がピッチャーを始めたのは、高校に進んでからだった。関西六大学リーグの強豪・龍谷大学に進み、3年の春にベンチ入りが定着し始めた頃、「プロに行けるかも」という意識が芽生えた。4年のシーズンには主力の先発投手として活躍。秋季リーグ戦で優勝し、明治神宮野球大会にも出場した。卒業後は社会人野球に進み、NTT西日本で2年間プレーした。「全日本にも選ばれましたし、海外遠征も経験しました。そして、2005年のドラフトで中日ドラゴンズに6巡指名されたんです」。しかし、膝の故障が続き、7年間のプロ生活のうち3年をリハビリに費やすという、不本意なシーズンが続いた。満足な結果を出せぬまま、2012年を最後に戦力外通告を受け、現役を引退することになった。「今振り返ると、私はプロ野球選手になることが目標だったんですね。プロの世界で活躍する姿がイメージできていなかったんです」
必ず結果を出すと確信してLP転身
選手を引退し、球団職員としてチケット販売をしていたある時、大学時代に同じくピッチャーでプルデンシャル生命に入社していた友人に会った。友人にチケットの営業先を相談すると、名古屋南支社(当時)の支社長を紹介してくれた。「チケット営業に行ったつもりが、逆にライフプランナーになってみないかと誘われて、そのままスーッと迷わず入社を志望しました」。
入社の際、「必ず『ドライデン・アワード』を取ると信じ込んだ」という齊藤だが、それには確固たる理由がある。「私はプロ野球選手時代、厳しかった落合博満監督のもとで、指導を受けました。『勝てると思ったことをやれ』というのが、落合監督の教えです。本気で努力したことがある人間なら、ライフプランナーという仕事は必ず結果を出すことができると思います。特にスポーツで結果を出している人なら、成功しない理由は、ありません。思い続ける力、信じ続ける力ほど強いものはないのです。それはライフプランナーも同じです」
私だからこそ生命保険の価値が伝えられる
齊藤がライフプランナーとして頑張ろうと思う理由、それは父親の死だ。齊藤の父親は脳腫瘍のため、58歳の若さで亡くなった。「闘病していたとき、お金が苦しく、涙を見たこともあった。それがとても辛かった。あのころ生命保険のリビングニーズ特約※を知っていたら苦労しなかったのかな、と思います。でも結果として、生命保険の保険金で今母は何不自由なく生活できています。生命保険の力に救われた私が、生命保険の価値を伝えなくてどうする?という思いです」
井川 宅朗(いかわ たくろう)
日大レシーバーだった兄の影響で浪速高校でフットボールを始め、一貫してQB。法政大学に進学し、4年時には甲子園ボウルを逆転で制して優勝し、チャック・ミルズ杯(年間最優秀選手)を受賞。ライスボウルにも出場した。2001年卒業後は三井住友銀行に勤務するかたわら、東京ガスクリエイターズ、オービックシーガルズ、アサヒ飲料チャレンジャーズでプレー。2015年6月プルデンシャル生命保険にライフプランナーとして入社。2018年から学習院大学監督。
高校時代のコーチの影響から名門・法政大学に進学した井川。当時の法政は、関東学生リーグでは無敵を誇り、大学日本一を決める甲子園ボウルでも王座をつかみ取った。大学卒業後は銀行員になり、社会人チームでプレーを続けたが、転勤もあってチームを転々とした。そのおかげで、人脈を築くことができたと井川は言う。選手を引退した後、母校・法政のQBコーチを始めた頃に、法政の先輩であるプルデンシャル生命の営業所長に声をかけられたのが、ライフプランナーへの転職のきっかけとなった。
自分自身の力で勝負したい
「銀行員時代、30代半ばを過ぎて大企業相手の部署に異動になりました。仕事は面白くなってきましたが、仕事内容は顧客と接するというよりは、社内調整がメイン。この先を考え、自分自身の力で勝負したい、自分で決めて仕事をしたいと思うようになりました。ライフプランナーなら、勤務地に左右されない。自分の志向に沿って色々な人と付き合える。時間もこれまでの人脈も、思う存分に活かせると思ったんです」
ライフプランナーになって4年目に入ったが、「フットボールと同じで、仕事も良い時もあれば悪い時もあります」と言う井川。「法政は常勝チームだったので、当時は負けることが本当に怖かった。そのプレッシャーをはね除ける忍耐力が必要でした。だから、肝が据わってるという自負はありますよ。あの頃の経験があれば、何ともないです。真剣に情熱を燃やしてやってきた人は、どこに行っても頑張れる。そういう経験がある人に、ライフプランナーに挑戦してほしいと思います」
学生たちとの交流から学ぶこと
井川は今年、学習院大アメリカンフットボール部ジェネラルズの監督に就任した。監督業を通じた学生たちとの交流が、ライフプランナーとしての活動にも活きていると井川は言う。「私が仕事でお客さまに向き合ってやっていることと、大学生たちと向き合って一緒に悩んで解決できるか考えていくことはまさに同じで、当社の社員が大事にする、『信頼に値すること、顧客に焦点をあわせること、お互いに尊敬しあうこと、勝つこと』という精神に通じるものがあります。こんな時間が持てるようになったのも、ライフプランナーになったからこそ。5年以内の1部リーグ復帰をめざして、学生たちと日々対話しています」
石橋 顕(いしばし あきら)
中学時代は陸上部で過ごす。高校からヨットを始め1991年石川国体少年男子FJ級優勝。1994年全日本インカレ470級MVP獲得。1996年大学卒業後、TOTO株式会社入社。社会人になってからもヨットを続け2001年みやぎ国体470級優勝、2008年エキスパート・オリンピック・ガルダ優勝。同年8月に開催された北京オリンピックに出場し12位。ヨット引退後は地元福岡県内の企業に2年勤務し、2010年11月プルデンシャル生命に入社
石橋の朝は早い。毎朝5時に起き、日課を順にこなしていく。しかしそのルーティンは巷のビジネスマンとは異なる。18トリソミーという難病のある長女の介護だ。心疾患と肢体不自由で体を動かすことができない娘の体を拭き、食事を手伝う。ひと通りの家事を終えると11時ごろになる。「娘は24時間体制で看てやる必要があります。妻をずっとかかりきりにさせてしまうのはあまりに負荷が大き過ぎる為、家族総出で協業しなければ日常生活が成り立たちません」。支社に出社する必要のない日は昼前からアポを入れ、会食などが入らなければ、夜も毎日できるだけ早く家に帰る。
家族のために生きる道を選ぶ
現役を終えて約2年、地元福岡の企業で働いていた石橋にプルデンシャル生命の営業所長から電話があった。これが転職のきっかけだった。「経済的にも時間的にも自由になれるという言葉がすべてです」。それだけ家族との時間を必要としていた。「しかも経済的に豊かになれば、娘のために惜しむことなく治療にお金が費やせます。現役を引退してからお世話になった地元企業を退職することに相当悩みましたが、最後は家族のために生きる道を選びました」。
自分の保険の価値をどうやって上げていくか
自分が五輪出場選手であるからといって、お客さまが提案に耳を傾けてくれるわけではない。「現役時代の人脈を頼りにアポを取り始めましたが、保険の話を聞いてくれる方は予想外に少なかったのです。ライフプランナーを始めた頃、アポのキャンセルが続いたこともありました」。それでも辞めるという選択肢は全くなかった。「今より上のステージに行くために辞める、というのは考えられますが、辛くて辞めるという選択肢は全くなかったです。そういう自分が許せないんでしょうね」。ほどなくして、自分が五輪出場選手であると話題にすることをやめた。「肩書に頼るよりも、どうやって自分の保険の価値を上げていくかという考え方を実践するようになりました」。
常にお客さまの存在を考え続ける
スポーツの世界で大きな成果を残した元アスリートたちが毎年プルデンシャルの門を叩く。「スポーツと仕事は似ているところもありますが、究極的には、スポーツは自分のためにやる性質のものと考えています。勝つことに専念して、没頭していればいい。でも仕事には相手がいる。つまり自分の成績を一番の目的にしてはいけない。お客さまのためになっていないといけない。だから常に自分が相手にとってどのような価値があるのかを考え続けるようにしています」。
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ライフプランナーになるには
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- STEP 1
- キャリア・インフォメーション・
プログラム
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- STEP 2
- 一次面接
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- STEP 3
- 二次面接(役員面接)
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- STEP 4
- 内定
ライフプランナーへの第一歩。それがキャリア・インフォメーション・プログラムです。このプログラムは単なる会社紹介ではなく、ユニークな制度・独創的なニードセールス等を実際的なシミュレーションを通して理解して頂くものです。
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