Kiyo Sakaguchi奨学金

プルデンシャル生命保険では、数学というフィールドで未来を拓く次世代を担う人材を応援します。

本奨学金は、創業者Kiyo Sakaguchi(坂口 陽史)を記念して2004年に設立されました。学業成績が優秀で、「数学」の分野を極めるためにアメリカ留学を希望しているが、経済的な理由により実現が困難な高校生、大学生に機会を提供し、本人のチャレンジ精神・夢の実現を支援することを目的としています。
2004年に本奨学金制度をスタートして以来、2022年4月現在までに14名を奨学生として選定しています。

募集要項

募集要項をご確認の上、エントリーフォームよりご応募ください。

奨学金の額、給付時期および給付期間

大学もしくは大学院留学中の授業料に対し、年間300万円を上限として支給します。

  • 給付期間は1年更新、最大4年間です。
  • 奨学金の給付内容に生活費(寮費や食費)やテキスト代、ビザ取得に関わる費用、渡航費は含まれません。
  • この奨学金は原則として返還を要しません。
応募資格
  • アメリカの大学・大学院にて数学科目の専攻を希望する高校生もしくは大学生
  • 日本にある高校、大学に在籍していること
  • 日本に在住していること
  • 現在の専攻が数学である必要はありません。
  • 応用数学や保険数学など数学に関する学問に限ります。
  • 既に留学中の方、ならびに社会人は対象となりません。
  • コミュニティ・カレッジ、語学留学、数学科がない大学、数学が専攻できない大学に留学される場合は対象となりません。
募集・選考スケジュール
  • 募集〆切:毎年8月末日(エントリーフォーム必着)
  • 合否決定:12月予定
  • 本奨学金は通年で募集し、毎年8月末が募集〆切です。
  • エントリーフォームは(1)学歴・予定大学・専攻・保有資格・自己PR等、(2)小論文「テーマ:留学して実行したいことと将来の抱負」(800字程度)、(3)成績証明、(4)所得状況を問う内容になっています。
  • 郵便での受付はしておりませんので、ご注意ください。
募集人員 1~2名
選考方法
  • 第一次選考:書類審査
  • 第二次選考:面接
  • 面接時に(1)成績証明書、(2)資格証明書、(3)納税証明書もしくは所得証明書、住民票をご持参ください。
  • 世帯の実質的な収入及び日本居住を確認するため「納税証明書」「所得証明書」「住民票」をご提出いただきます。
奨学生の内定 第一次選考終了後、及び、第二次選考終了後、本人に書面にて通知いたします。
お問い合わせ先

お問い合わせ内容のご入力欄のはじめに「Kiyo Sakaguchi奨学金」とご記入ください。

当社は、Kiyo Sakaguchi奨学金への応募にあたって取得した応募者の皆さま等の個人情報を、同奨学金の選考・運営に利用します。
次のいずれかに該当する場合を除いて、個人情報を外部に提供することはありません。

  1. 1応募者が同意されている場合
  2. 2法令により必要と判断される場合
  3. 3応募者または公共の利益のために必要であると考えられる場合

なお、いただいた情報をもとに、個人を特定できない形式で統計データを作成し、公開することがございます。

創設の背景

創業者 坂口陽史

一青年のあこがれと挑戦

プルデンシャル生命保険の挑戦の歴史は、ある一人の青年の夢にまでさかのぼります。
プルデンシャル生命保険の創業者・坂口陽史は、終戦直前に熊本県・天草に生まれ、その後長崎県の佐世保の貧しい家庭で少年時代を送りました。時は折しも朝鮮動乱期、前線に最も近い米軍基地を擁する佐世保には、大量の米軍の人と物が送り込まれていました。

基地の町・佐世保で、アメリカの息吹を一身に受けた坂口少年は、遠いアメリカへのあこがれを募らせ、基地に住む従軍牧師の家の戸をたたきました。そして、牧師から英語を習い、アメリカについて学び、牧師の厚意により、18歳の時に、奨学金を受けてアメリカに留学することになったのです。まだ一般人の海外への渡航は、ままならなかった時代でした。

坂口少年は、あこがれと決意を胸に、単身アメリカに渡り、ペンシルベニア州レバノン・バレー大学に進学しました。
勇躍アメリカには着いたものの、当初英語がほとんど話せなかった坂口は、かねてから得意だった数学を専攻科目として選びました。アメリカ渡航時に、貧しい両親が渡してくれたのは片道切符だけ。坂口は、皿洗いに溶接工という重労働のアルバイトで生活費を稼ぎながら、苦学を続け、大学を卒業、その後、大学院に進みました。

生命保険がもたらしてくれた新たな人生

坂口陽史には、学生時代から、生命保険との不思議な縁がありました。
生活のためのアルバイトの激務で憔悴しきっていた坂口を心配して、担当教授が紹介してくれたのが、生命保険会社で、事務作業に携わるかたわら勉強を続けられる、インターンシップという仕事でした。また、坂口が愛する女性と結婚し、新生活を始められるきっかけを作ってくれたのも生命保険でした。

苦学を続ける坂口を支えてくれたのは、1年の時から共に学んだ同級生のアメリカ女性、ジョアン・コクランでした。心優しいジョアンは、坂口にノートを貸し、英語を教え、アメリカで苦学を続ける坂口を励ましました。
やがて、二人は大学卒業と同時に結婚しようと約束。しかし、二人の結婚は簡単なものではありませんでした。
坂口は、卒業を報告するために一旦帰国。その際に、結婚を報告し、すぐにアメリカに戻るつもりでしたが、なかなか両親に結婚のことを言い出せませんでした。
そして、いざ言い出してみると、予期した通り両親は青い目の女性と結婚してアメリカに住むなどということに大反対でした。

ジョアンは、坂口さんの両親が反対するであろうことを予期していました。
そこでジョアンは日本に戻る坂口に、両親が、将来のためにと自分にかけてくれた生命保険の解約返戻金を持たせたのです。
坂口は、ジョアンが持たせてくれたお金でアメリカに戻り、残りのお金で、引越、家具を買い、二人の新生活を始めたのでした。
若き坂口陽史夫妻の新生活のスタートを支えてくれたのが、生命保険だったのでした。

生命保険の専門家 アクチュアリーに

そういう縁もあって、大学院へと進んだ坂口陽史が目ざしたのは、生命保険における数学の専門職アクチュアリーという資格でした。そして、働きながら勉強を続けた結果、アメリカ人ですらなかなか合格しないといわれる超難関、米国アクチュアリー試験に日本人第一号として合格したのです。
18歳でアメリカに来たときにはアメリカの中学生並みにも英語を話せなかった青年が、今や、アメリカで高度な専門職としての資格を獲得したのでした。
その後、坂口陽史は、アメリカにおいて、生命保険の専門家としてキャリアを確立、いくつかの生命保険会社で働き、また独立したコンサルタントとして活躍しました。

当時世界最大の生命保険会社・米国プルデンシャルの日本法人の代表に

そして、1970年代、日本進出を検討していた、当時世界最大の生命保険会社米国プルデンシャルにスカウトされ、日本に戻り、プルデンシャル日本法人の設立を担当することとなりました。

プルデンシャルはソニーと合弁で、1979年ソニー・プルデンシャルを設立。坂口は、同社の副社長、その後社長となりました。1987年、プルデンシャルとソニーは合弁解消しプルデンシャルは単独で日本法人プルデンシャル生命保険を設立。坂口は社長、その後会長となりました。坂口は、ゼロからスタートした生命保険会社を大きく育て上げたのです。
その功績により、坂口は、1998年には米国プルデンシャルの役員兼国際保険部門の最高経営責任者となり、日本のみならず、韓国、台湾など、世界中に生命保険ビジネスを展開し、成功させることになりました。

数学というフィールドで未来を切り開く、次世代の人材を支援します

若くして一人アメリカに渡った坂口陽史は、数学、そして努力とチャレンジ精神をもって、自らの道を切り開いていきました。
坂口陽史は、2002年、惜しくも58歳で急逝しました。

私どもプルデンシャル生命保険は、故・坂口陽史の遺志を継ぎ、坂口陽史のように、数学を専攻し、留学してさらに勉強を重ね、自分の将来を切り開いていきたいと希望される、次世代の人材を応援したいと考えています。