Episode06

2011年
“For Customer”を合言葉に、
チームワークを発揮した東日本大震災

大災害が起こった際に、生命保険会社が果たすべき義務が二つある。一つは事業を継続していくこと。そしてもう一つは、万一の場合にお客さまとの約束を果たすために安否確認を行うこと。
東日本大震災の直後から、プルデンシャル生命仙台支社の社員たちは、お客様の安否確認のため県内の避難所を回り始めた。余震や津波の恐怖の中でたどり着いた避難所では、同業他社の連絡先も掲示した。また、保険証券や印鑑を失ったお客様には、柔軟に保険金支払いの手続きを進めていく。“For Customer”を合言葉に、未曽有の大災害をチームワークで乗り越えた記録である。

3.11――今なお、人々の記憶に強烈な印象を残す日付である。2011年3月11日に発生した東日本大震災は最大震度7で、地震の規模を表すマグニチュードは9.0。日本周辺における観測史上最大の震災であった。次々と目を覆いたくなるような惨状を伝えるニュースを、和田は東京本社のオフィスで我が事のごとく聞いていた。和田は第二本社である仙台のドライデン・カスタマー・センター(DCC)勤務だが、当時はプロジェクトのため東京に単身赴任中だった。自宅も家族も仙台に残してきている。何かせねばと焦燥感が募る矢先、和田に「仙台に戻り、災害対策に当たってほしい」と指令が下る。

本社経営陣は、地震の規模を把握すると同時に、現場からの要請も勘案してDCCの中に東京本社と同等の権限を持つサテライト機能を置くことを決める。東京本社から災害対策スタッフとして社員を派遣し、被災地と東京との連携を取りつつ、現地で支援に当たることにした。家族が被災地にいる和田に白羽の矢が立ったのは、ごく自然な流れであった。
地震発生から数日後に、和田はDCCに到着する。幸い現地の社員たちはそれほど大きな被害を負ったものはおらず、ほぼ全員がすぐにでも復旧対策に取り掛かれる状態であった。保険会社としてまず真っ先にやらねばならないことは、お客様の安否確認だ。

プルデンシャル生命における大災害時の行動例といえば、1995年の阪神・淡路大震災での対応がモデルケースとされ、20年以上も前の事例ながら全社的に広く共有されていた。神戸のライフプランナーたちは、いったん大阪に避難したにもかかわらず、再び被災地に入り、瓦礫をかき分けて自らの足でお客様を探し歩いたのである。その行動は今も社内で語り継がれ、「困難な状況下だからこそ自分たちの誇りを失わず、お客様のために全力を尽くそう」という気持ちが社員全員の心に刻まれていた。

この神戸での経験が活かされ、仙台支社でもライフプランナーの及川と小林が主導となって、すぐに県内の避難所を回る計画が立てられた。当初は支社内から希望者を募る予定であったが、結果としてほとんどのライフプランナーが積極的に参加したという。本社との連携もスムーズで、避難所を周るためのレンタカーの手配、食料や長靴、ロゴ入りジャンパー、のぼり、リュックサックなどの物品もすぐに届けられた。
「神戸のときと同様、被災した社員のためのホテルやお風呂の手配も早く、現場にいる身としては助かりました」と和田は振り返る。

当時、宮城県内には514カ所の避難所があり、余震も続いていたため、「3人一組など複数人で行動する」「担当エリアを決める」など、安全の確保と効率性を兼ね備えた計画が立てられた。
ガソリンの供給も制限されており、一日は給油のためスタンドに並び、翌日にようやく出発できるという状態だった。しかし苦労して訪問してみても、避難所にプルデンシャル生命のお客様がいらっしゃる割合はそう多くはない。「当社のお客様でなくとも、どこかの保険には必ずお入りになっているだろう。むしろ、他の保険会社の連絡先も同時にお知らせした方が、被災者の方のお役に立つのではないか」。及川、小林の両名はそう提案した。

それ以降、県内各地の避難所では、プルデンシャル生命の社員が「生保協会連絡先一覧」のコピーを掲示板に貼る光景が見られた。白地にブルーの“プルデンシャルロゴ”が入ったジャンパーを着た社員が、他の保険会社の連絡先を貼り出す姿は、少し奇妙にも映ったかもしれない。しかし情報入手が難しく、あまりに甚大な被害状況を見れば、自社も他社も関係なかった。

「この先まで行ったら、また津波が来る可能性がある。でも、もしそこに避難されているお客様がいたら・・・。そんな葛藤を常に抱えながら回っていました」と語る和田の言葉通り、余震や津波の恐怖と戦い続けながらの避難所訪問であった。しかし、困難を乗り越えてやっとたどり着いたからこそ、被災者の方全員にとって役に立つ情報を提供したいという思いは強かった。
草の根の行動が実を結び、最終的には514カ所の避難所のうち、約半数の248カ所を回り「連絡先一覧」を設置することができた。

安否確認の結果、残念ながら犠牲になってしまわれたことが分かった場合、保険金の支払い手続きを行う。しかし今回の震災は、津波を伴った大規模災害であったため、過去に経験したこともない様々な困難に直面した。
「証明書や印鑑が津波で流された」「役所・病院が機能していない」「津波で行方不明のため、契約者の死亡が確認できない」など、次々と前例のない事項が飛び込んでくる。
そんな中、柔軟な対応力を発揮したのが、DCCだ。

和田が忘れられない支払い事例が2件ある。1例目は、両親が津波で所在不明となった子どもたちへの保険金お支払いだ。役所庁舎も津波で全壊し、身分証明書の発行も難しい中で、受取人となる子どもの本人確認をする手段がない。何とか手段はないかとDCCは奔走し、「家族入院特約」加入時の書類を代用する方法を考えつく。特約契約時に使用した母子手帳のコピーを用い、受取人本人であると証明した。

2例目は、被災した従業員へ給与を支払うため、保険解約を余儀なくされた経営者の方の事例である。石巻にあった会社の社屋が津波で流され、法人の印鑑も紛失。通常であれば新たな印鑑証明を取り直せばよいが、証明書を発行する市役所も被災し、行政機能はマヒしている。契約者本人であると確認が取れないまま、保険金を支払うわけにもいかず、万事休すかと思われた。
そんな中、顧客情報をくまなく調べていたDCCから一報が入った。このお客様は法人契約以外に、個人でもプルデンシャル生命の保険に入られていたことが判明。その際の契約書類で代替処理が可能ということが分かり、無事に保険金をお支払いすることができたのだった。

お客様に対するライフプランナーの想いと、それに応えたDCC。“For Customer(お客様のために)”を合言葉にし、気持ちを一つにしたからこそ、多くの困難を乗り越えられたのだと和田は感じている。
東日本大震災は未曽有の大災害であったが、それを乗り越えた社内のチームワークは一層強固なものになった。社員同士の結束も高まり、全国から届いた多くの励ましの言葉や義援金にも、仙台支社はとても勇気づけられたという。
2011年4月、震災からわずか半月しか経っていない中で迎えた“年度初め”。仙台支社の2011年度スローガンは力強いものだった――。

「見せよう プルデンシャルの底力を!
見せよう 仙台支社の底力を!
見せよう ライフプランナーの底力を!」